RICHLAND リッチランド

INTRODUCTION
イントロダクション
平和で美しいアメリカの典型的な郊外の町、ワシントン州南部にあるリッチランド。人々は町を愛し、隣人を愛し、仕事に誇りを持って暮らしている。応援する地元高校のフットボールチームのトレードマークは“キノコ雲”と“B29爆撃機”、チーム名は「リッチランド・ボマーズ」。そう、リッチランドは、1942年からのマンハッタン計画における核燃料生産拠点「ハンフォ ード・サイト」で働く人々とその家族が生活するために作られたベッドタウンなのだ。1945年8月9日、長崎に落とされた「ファットマン」のプルトニウムはハンフォード・サイトで精製されたものだった。終戦後は冷戦時に数多く作られた核兵器の原料生産も担い、稼働終了した現在はマンハッタン計画に関連する研究施設群として国立歴史公園に指定され、アメリカの栄光の歴史を垣間見ようと多くの観光客が訪れている。
リッチランド高校の“キノコ雲”は町のいたるところで掲げられ、「原爆は戦争の早期終結を促した」と誇りを口にする人々。一方で「川の魚は食べない」と語る者たちは、核廃棄物による放射能汚染への不安を今も抱えながら暮らしている。町の歴史を誇りに思う者がいる一方で、多くの人々を殺戮した“原爆”に関与したことに逡巡する者もいる。そしてまたハンフォード·サイト自体、ネイティブアメリカンから“奪った”土地だったのだ。様々な声が行き交う中で、被爆3世であるアーティスト·川野ゆきよがリッチランドを訪れ、町の人々との対話を試みるのだが...。多くの犠牲のもとで、多くの命を奪い、存在そのものが人類の脅威となってしまった“原爆”。『オッペンハイマー』のその後、アメリカは“原爆”とどう向き合ってきたのか? その罪と痛みを背負うのは誰なのか? 近代アメリカの精神性、そして科学の進歩がもたらした人類の“業”が、重層的に浮かび上がる叙事詩的ドキュメンタリー。
『リッチランド』は
好奇心と気遣いをもって小さな町の心を覗き込み、
そこにある喜びをみとめつつ、
痛みや喪失、そして破られた約束を照らし出す
『ハリウッド・リポーター』誌
考えさせられる重要なドキュメンタリー。
人は破壊の只中にあっても、
居場所を与えられれば受容してしまうという事実を、
恐れず白日の下にさらす一作だ
『ザ・ラップ』誌
多様な共同体を
やさしく掘り下げて描く作品。
その共同体はまさしくアメリカ的だ
――原子爆弾と同じくらいに
『ハンマー・トゥ・ネイル』
映画作家アイリーン·ルスティックは、
目の覚めるような精密さと感情的な誠実さでもって、
世代間の岐路に直面したアメリカの町の肖像を描き出す。
対立の種となる町の歴史を受容する住民もいれば、
その過去と向き合う者もいる。
『リッチランド』は、共同体がいかにアイデンティティを維持するか、
そしてアメリカの覇権と安全保障は
どのように見えているかを詳細に描写する
トライベッカ映画祭
その木の果実はプルトニウム 私たちは その果実を食べた
その果実を食べた その果実を食べた その果実を食べた 食べた 食べた
こうして私たちは 楽園を追われた 大地を毒したために
そして その毒により 互いを滅ぼすすべを 得たために
互いを滅ぼすすべを 互いを滅ぼすすべを 滅ぼす 滅ぼす 滅ぼす
今や私は死そのもの 今や私は死そのもの 今や私は死そのもの あまたの世界の滅ぼし手
原子炉の中で誰かが歌っている 原子炉の中で誰かが歌っている
その歌は すべて花になった 原子炉の中は 花で満ちている
『Nuclear Dreams: An Oral History of the Hanford Site Words』
作詞:ナンシー・ウェリバー
作曲:レジナルド・ウンターセハー
歌唱:ミッドコロンビア・マスターシンガーズ
ABOUT "HANFORD SITE" AND "RICHLAND"
「ハンフォード·サイト」と「リッチランド」
マンハッタン計画で急遽作られた核燃料生産拠点「ハンフォード·サイト」
そのベッドタウンとして生まれた「リッチランド」の成り立ちと現在
第二次世界大戦時、秘密裏に進められたマンハッタン計画。その主な実働拠点は、原子力爆弾開発を目的とした研究所が設立されたニューメキシコ州·ロスアラモス、ウラン精製工場のテネシー州·オークリッジ、そして核燃料生産工場が置かれたワシントン州·ハンフォードである。第二次世界大戦以降も冷戦期の軍拡競争を背景に、核開発を推し進めていったアメリカにとって、国家を支える重要な拠点となった。
ハンフォード·サイト
プルトニウムの生産拠点として、マンハッタン計画の一翼を担ったハンフォード·サイトは、アメリカ北西部最大の都市であるシアトルから約250㎞、ワシントン州東南部に位置する。砂漠が広がる乾燥地帯だが、コロンビア川をはじめとして3つの川の合流地点にあり、古くからワナパム族等の先住民族の居住地だった。広大な敷地があること、近隣に多くの住民が住む都市がないこと、原子炉冷却に必要な水が豊富なこと、といった条件を満たした土地として、1942年に核燃料生産拠点の建設が決定。1943年から稼働を開始した。 1945年7月、ハンフォード·サイトで作られたプルトニウムから、ロスアラモス研究所で原子爆弾が製造され、ニューメキシコ州·アラモゴード爆撃試験場での核実験に使われた(トリニティ実験)。1945年8月、その後に作られた「ファットマン」が、長崎で実戦使用された。1943年から稼働を開始したハンフォード·サイトでは、第二次世界大戦終了後も冷戦による軍拡競争の拡大を受けて1987年まで核燃料生産が行われ、アメリカの軍事用プルトニウムの約3分の2がこの場所で生産された。 設立当初から懸念されていた放射能汚染が拡大、核廃棄物処理問題も抱えており、除染作業や建物·タンク解体作業が続けられている状況の一方で、2015年、ロスアラモス、オークリッジとともにハンフォード·サイトは、マンハッタン計画を担った歴史的施設として「国立歴史公園」に指定された。また2000年代以降ワイン産業が急成長を遂げ、近郊では200軒以上のワイナリーがあり、ワイン目当ての観光客が多く訪れるようになった。
リッチランド
ワシントン州ベントン郡の都市で、現在の人口は約6万人。もともとは先住民族が古くから住んでいたが、1900年代に移住者が入ってくるようになった。「リッチランド」という地名は、当時の州議会議員ネルソン·リッチの名が由来。第二次世界大戦前までは農業中心の小さな町だったが、1943年に核燃料生産拠点「ハンフォード·サイト」設立の決定後、マンハッタン計画に従事する労働者や家族が住む町として新たに作られた。数百人だった住民は約25,000人に増加。第二次世界大戦終結後も、冷戦による核燃料生産の需要増によって、リッチランドはさらに発展していった。町の成立当初は、政府により住民との接触は制限され、陸軍の承認を必要とした。土地や建物、インフラまでも政府が所有、管理していたが、1957年に政府は土地と建物の権利を住民へと移譲し、住民との接触の制限が解除された。1987年、最後の生産用原子炉が閉鎖され、環境浄化技術の開発へと移行した。現在もリッチランド住民の多くは、ハンフォード·サイトの浄化に関する仕事に従事している。

「戦争を早期終結させた」ことを誇りに思う住民は今でも多く、地元·リッチランド高校のフットボールチームの名前は「リッチランド·ボマーズ」、トレードマークは“キノコ雲”を模している。この“キノコ雲”は高校内だけでなく、町のいたるところで見受けられ、高校としてだけでなく、町のトレードマーク、アイデンティティにも繋がっている。このリッチランド高校の“キノコ雲”は日本でもたびたび取り上げられ、近年ではたまたまリッチランド高校に留学した高校生の手記やインタビューが話題になった。
DIRECTOR
監督ステイトメント
アイリーン・ルスティック
監督・製作・編集
フェミニスト映画作家、アーカイブ研究者、アマチュア裁縫家。英国生まれボストン育ちの米国人1世であり、両親はチャウシェスク政権下のルーマニアを政治亡命者として逃れてきた。『リッチランド』以前にも3作の長編を制作。カリフォルニア大学サンタクルーズ校で、映画およびデジタルメディア学教授として映画制作を教える。
人間存在を否定するような根深い構造がある現代
単純な推進派VS反核派ではない
アンビバレントな世界をスクリーン上に映し出す
私が初めてリッチランドを訪れたのは2015年のこと。当時の私は米国各地のコミュニティで映画『Yours in Sisterhood(2018)』を撮影していました。初対面の人たちを招き、1970年代に雑誌『ミズ·マガジン』の編集者に宛てて書かれた手紙と彼女たちの出会いを記録する映画です。
その中で見つけたのが、リッチランド出身のとある女性が『ミズ』に送った手紙でした。彼女がつづったのは、ハンフォードで働く父を放射線関連の病気で亡くした経験で、私はリッチランドで撮影を行い、トリシャ·プリティキンにこの手紙を朗読してもらいました。トリシャはリッチランド出身の反核アクティビストかつ“風下住民”であり、彼女の被ばくと喪失の物語は、手紙に記されたそれとほぼ完全に重なります。
彼女はリッチランドの「アルファベット·ハウス」歴史地区を車で案内してくれました。アルファベット·ハウスとは、ハンフォード·サイト職員のために同一規格で建てられた郊外型の家々のことです。トリシャは自分が育った「F型」の家を指さして教えてくれました。それからリッチランド高校へと私を連れてゆき、大文字の「R」から噴き出すキノコ雲が学校の背後の壁いっぱいに描かれているのを見せてくれました。
その後何カ月も、何年も、私はリッチランドのことを考えずにはいられませんでした。2016年の米国大統領選挙戦の進行に伴い、白人至上主義や米国のナショナリズム、右翼的イデオロギーが懸念せずにはいられない形で新たに立ち現れてきました。そんな中、共同体が自らの歴史のシンボルとして核兵器をああも誇らしく押し出すとはどういうことなのだろう、と私は思い惑ったのです。やがて、リッチランドのような共同体は米国人が自らの暴力の歴史をいかに処理してきたのかについて示唆を与えてくれるのではないか、それを理解したい――という思いに駆られるようになりました。
私はチャウシェスク政権下のルーマニアを政治亡命者として逃れてきた両親の間に生まれた米国人1世です。初めての長編映画では自分の家族の隠された歴史を5年間かけて掘り起こしましたが、その親密なプロセスを通して、人が痛みを呼ぶ歴史と向き合う過程を、ケアと共感をもって支えることを学びました。それ以来、映画作家としての私には、人々とその過去の間を繊細に仲介する役割があると考えています。
ハンフォードの物語をテーマに選んできたジャーナリストや作家、反核アクティビストは数多くいます。しかし彼らはこの物語をもっぱら、核兵器産業の真実を暴いて批判することを目的とした調査的なまなざしを通して語ってきました。リッチランドで辛抱強い人間関係構築とコミュニティ·リスニングを数年かけて行う中、核兵器製造のもたらす膨大な環境的·人的コストについて語ることを避けたくありませんでした。しかし同時に、ハンフォードの職員たち――もっぱら私とは大きく異なる政治的姿勢を持っている人々――の物語も、尊厳を惜しまず聴く耳をもって表象したかったのです。
『リッチランド』は簡単な答えを与える映画ではないし、政治的立場を示すものでも、シンプルな原子力産業批判を行うものでも、原子力の専門家とのインタビューを含む作品でもありません。代わりに行うのはもっとやっかいな作業――異なる声や立場が共存できるよう忍耐の中で開いてゆく空間を作り、いくつもの絡まり合った歴史をそっとひとところに抱き入れるような映画的形式にしてゆくことです。私たちが今生きている時代は、人間存在を否定するような根深い構造を持っています。そんな時代だからこそ、感情と信条の仕組みをテーマとしたこのプロジェクトには差し迫った必要性があると感じています。核推進派VS反核派という二項対立のような、簡単に消化できるような世界をスクリーン上に作り出すよりも、より居心地悪く、人との距離が近く、アンビバレントな空間に身を置きたい。その空間こそやがて、私たちが心に抱くさまざまな形を教えてくれるでしょう。 
(Folded) FATMAN
(折りたたむ)ファットマン
本作のメインビジュアルでも使用されているのは、アーティスト・川野ゆきよのインスタレーション作品「(折りたたむ)ファットマン」。広島出身の被爆三世でもある川野は、祖母の着物をほどいた布を、自らの髪で縫い上げ、長崎に落とされた「ファットマン」の造形を実物大の大きさで形作った。
2021年8月10日、長崎に原爆が落とされてから76年の翌朝、かつての核施設の緩衝地帯であるハンフォード・リーチに一時的に展示された様子が描かれている。多くの人々を死に至らしめた原子爆弾の造形のまま風に揺れる作品は、祈りそのものの姿の様だ。
川野 ゆきよ
アーティスト、活動家。米国在住の被爆三世。 国内の多くの核施設を訪れ、核技術の発展がいかに大地を永久に変え、地域社会を分断し弱者を抑圧し続けているかを目の当たりにした。川野の作品や活動は、被爆者の物語を、ウラン採掘の影響を受けた地域社会や日本の福島の原子力発電所事故の風下地域と結びつけ、放射線被ばくに苦しむ人々についての物語を伝える。
CAST
登場人物紹介

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PROFILE

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ハンフォード歴史プロジェクト
ドナルド・ソレンソン
「ハンフォード・サイトにあるほとんどの施設に行った。給料はよかったよ。キノコ雲は世界の誰もが知っていて、皆偏った立場から“不適切だ”と言ってくる。だが変える必要などない。これは殺しのシンボルじゃない。この町の業績だ」
アンクル・ブラザーズ・フィッシュ・トラック
ヴァニス・ダニエルズ
「私は1966年にハンフォードへ働きに出た。プルトニウム生産に使うガラス容器を全て洗うんだ。もしも当時 私たちが原爆を落としていなかったら、今頃私たちは日本語を話してたろう。原爆がよかったとは言わない、だが悪いものでもなかった。原爆は今の私たちの知る米国の形を守ったんだからね」
B原子炉国定歴史建造物
バート・スピアー
「材料1トンからできるのはプルトニウム約200グラム。だから今大変なんです。約2億1200万リットルの放射性廃棄物が、177個の地下タンクの中で処理を待っている。(原爆に使うプルトニウムの量は?)長崎原爆は6.2キログラム」
スパッドナット・ショップ
ビル・ブラント/E・W・“ビル”・クリフォード/ロン・キャスレン/ジーン・カーバウ
(ハンフォードで働くためにリッチランドへ?)「ああ1949年に越してきた。俺たちの高校の愛称はボマーズ。だが日本人が後から“やめろ”と言ってきたんだ。そこで高校の校長が言った「戦争を始めたお前たちの言うことか?」」
レスリー・グローブス公園
ドリー・ルッゾ・ギルモア
「皆ハンフォードの正体を知らなかった。中で働いてた人たちもね。“あの雲は誇りだ”と皆言うの。本当は恐ろしい偉業。でも皆“恐ろしい”を省く」
スパッドナット・ショップ
ジム・デスレイジ
「リッチランド高校で36年間教えた。2~3人で校章を変えるべきだと訴えたんだ。一番もどかしかったのは…キノコ雲に反対することはこの町の業績の否定だと誤解されたことだ。高校と町とハンフォードへの憎悪だと」
N原子炉式典(1963年)
ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ大統領
「この川の岸辺で、過去20年間にわたり人々が大いなる役割を果たし、世界の歴史を変えました。これらの原子炉の重要性は大戦末期にひときわ輝きました。米国を強く保ったのですから。皆様に感謝するために私はここにいます」
レストヘイブン墓地
トリシャ・プリティキン
「兄は1947年に亡くなった。この町で死んだの。当時 乳児や新生児の急死がハンフォードで相次いでた。誰も調査しなかったけどね。でもこの墓地で本当にびっくりしたの。どこを見ても赤ちゃんの墓ばかり」
リーチ博物館
ロン・バックランド
「2回、ガイドをしましたよ。子供たちのグループがここへはるばる広島から来てくれた時にね。その子たちは祖父母の代で、あのひどい事件を経験してる。そういう時のガイドはつらいです」
リッチランド・コミュニティセンター
ジム・ストッフェルズ&ワールド・シティズンズ・フォー・ピース
「リッチランドと長崎の間には和解が大いに必要なのです。私たちリッチランドの住民こそが、長崎原爆のプルトニウムを生産したからです。裁くつもりで言うのではありません。単なる歴史的事実として述べています」
プナ·ワナパム村
レックス·バックJr.
「当時 指導者だった祖父の元に米軍がやってきたんだ。「この土地を使わせてもらう。国家が収用してあれやらこれやらを建設し色々やるんだ」「我々は どこへ行けばいい?」「補償してやる」と軍は言う。祖父の返答は「金など受け取れない。この土地の所有者は、私ではなく子供たち、そして孫たちだ」」
リッチランド高校
ジャスミン・ゴールドバーグ、ダニエル・ミトロシコフ・シェーファー、グラント・ロバートソン、オーガスティン・デュラロイ、ウィリアム・ヘンリー、イラヒー・クラーナー、パリス・ニコルズ、キョウコ・フィッシャー
「胸を張れないスローガンだなって思う。光るまで爆撃しろだなんて。不適切な校章トップ10”に選ばれちゃったし」「どこを見てもキノコ雲、学校は誇りにしてるよね」「もし別の国からやってきてこれを見たなら“これがアメリカなの?”って思うはずだよ」
サンセット霊園
キャロリン・ファザリ
「父は目まいを感じてたけど内緒にしてた。病気の原因は放射線被ばくよ。59歳で亡くなった。亡くなる1か月ほど前に“信じる相手を間違えた”と父は言ってた。認めるのはとてもつらかったと思う」
FLYER DOWNLOAD
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